飛騨高山、朝市の歴史について
史実によると金森長近が天正14(1586)年に豊臣秀吉の命をうけて、この飛騨の国を支配して以来、元禄5(1692)年、徳川幕府により出羽(山形)上の山藩に転封されるまでの6代107年間、城下町の町づくりや田畑の開墾、物産交易の市など商業の振興に、とくに力を注いだといわれている。それが今日の城下町高山の原型になっていて、いまでも古い町並みや商人町の面影を偲ぶことができます。
藩主金森氏の転封後、徳川幕府の直轄となり代官、郡代25代、177年にわたり天領として支配されました。現在の高山陣屋跡は、国の史蹟に指定され、代官、郡代の建物がほぼ完全な形でのこされ、御蔵(米蔵)8戸前(8棟)もむかしのまま残されているのは大変珍しい事です。
その陣屋前でかつて年貢米の売り立ての米市がひらかれていたし、町内では桑市、塩市、一・六市など物産交流の朝市、夜市がひらかれ繁盛していました。それが今日の陣屋前朝市に引き継がれ、史跡陣屋とともに観光客で賑わっているひとつです。
高山は、むかしから水田が少ない山村で産業として養蚕が盛んになり近村から桑を売りに くる桑市(夜市)がたっていきます。記録によれば文政3(1820)年、桑市が照蓮寺前で行われ、文政6(1823)年、鍛冶橋両詰めに夜の桑市がたち、物売り店が10数軒でて繁昌していきます。 さらに文久2(1862)年には、桑市と一緒に花市(夏菊、石竹、卯の花、百合花、紅白つつじ など)が開かれ、翌2年には、弥生橋詰めでも桑の夜市(5月~7月の養蚕期)が始まったと 記載されています。(高山市史)。
こうして幕末から明治にかけて、街道の交易はかなりの繁盛をみていたようです。「この頃より、高山にて辻売り渡世人(行商人)の者、二百人余あり、他国より売り込む香具師の中に紛らわしき品を売り歩く者があったので、取締は古来の通り仰付けられたい」(高山市史963貢)。
また、明治4(1871)年の記録によると、米市(年貢米の売り立て)、塩市、桑市、花市、青物市、牛馬市、木材市などのほか、毎月一と六のつく日に市がたち、日常品のほかいろんな物産が売られていたという。一・六市の当時の規則(明治4年)によれば、「他国俜近村遠郷より何品によらず売場へ持参候は、市場明地の内差支えなく貸渡し、商用不都合の義無之様懇切可致世話事」とあります。
◎本格的朝市のはじまり
飛騨高山は、むかしから交通の要所であり、すでにみたように物流交易(各種市)や文化交流の十字路であった。北は越中(富山)でとてたの鰤(ブリ)が越中街道(現国道41号線)をへて高山に入り、市がたち歩荷(ボッカ)によって雪の峠を越えて信濃(信州長野)に運ばれ正月の祝魚になったほか、越中の塩や魚と人が往来した街道。
また、東は野麦峠を越えて江戸につづく江戸街道(現国道361号線)は、明治になると飛騨の娘たちを信州に運び絲ひき娘をつくり、「ああ、野麦峠」の小説を生みました。江戸の文化もかつてこの街道で運ばれました。
西は、白川街道(一部国道158号線)、とくに郡上街道は、京都、大阪を結ぶ街道で、むかしから匠たちや京の物産の交易を通し、高山の経済や文化を支えた道でした。
そして南の益田街道は(現国道41号線)は、岐阜、名古屋と高山を結び、いずれも経済や文化におおきな役割をはたしてきました。
高山の朝市もその源をたどれば、古くからこうした物産交易や交流の下地によって培われてきたとみることができます。
そして明治27(1894)年ごろには、桑市の場所が照蓮寺別院前や安川通りなどでおこなわれていたが、そのなかに農家が自作した野菜をもってきて売るようになったと高山市史に散見される。その後高山の人口増加とともに朝市、夜市が一段と盛んになり、明治30年代になると「出買制度」(産地仲買制度)が設けられ、街道沿いに農家が朝市に出す野菜を買い集めるなど、大変な交易を見るようになりました。
大正時代になると、大野郡農会が主催して郡役所前(現陣屋前)に昼夜の野菜市がたち、とくに夜市のほうが人でも多く、広場いっぱいに農家が野菜をもちこんで売っていました。
こうして高山の朝市、夜市が農会組織をバックに恒常化し昭和16(1941)頃まで大変な賑わいをみせていました。ですが、昭和18(1943)年、戦時体制による灯火管制によって、これまで賑わいをみた平和な夜市は、高山の町から消え去り、朝市も細々と年寄たちによって続けられていきました。
そして本格的に朝市が復活をみるのは戦後の昭和20(1945)年以後となります。
こうして野菜中心の朝市は、明治20(1887)年代以後、明治、大正、昭和にかけて、朝市の場所や形は度々変わってきたが、高山の朝市は市民にとって生活の一部であり、台所の役目を担って続けられてきました。
昭和20年10月、いち早く陣屋前に青空市場(闇市)が立った。戦災で高山に疎開した人や復員者たち25人が集まって食料品、野菜、魚介類を売り始めたのがはじまりでした。魚介類は富山方面から、野菜は地元や近郷の農家が、その他のものは地元の製品や名古屋方面から運ばれてもので、いわゆる「やみ市」とよばれていました。生活物資の多くは国が統制していたころの話で、昭和22(1947)年、鍛冶橋から安川通りにかけて農家の野菜市と露天商(380人)を中心とした闇市との混合の朝市がにぎやかに再開していました。 闇市の場所が検察庁、裁判所、県事務所の前であったことを考えると、とても不思議な時代な感じがします。
そして昭和25(1950)年ごろから、生産者と消費者をじかに結ぶ野菜市が賑わい、市民のニーズも増し、一方農家も朝市への出場希望が多くなり、やがて高山の野菜朝市として定着していきました。そして観光客の増加とともに朝市も一段の賑わいをみせるようになりました。
国際観光都市、飛騨高山の人気スポット朝市は毎朝6時頃から12時まで開かれ、自家製の野菜・山菜・漬け物・花・果物・餅・味噌・手作り民芸品などが豊富に並べられて、訪れる市民はもとより観光客にも失われつつある季節を感じさせると共に四季折々の楽しさがあります。
またお店の中から「よう来てくれんさったな、また来てくれんさいな」素朴さと情緒ある飛騨ことば(飛騨弁)が、訪れる人々の心に癒しとおもてなしの風情が今も生き続けている国際観光都市飛騨高山の人気スポットとして、国内外から多く訪れる観光客、市民で賑わい人々の交流の重要な場所となってます。